小学生の時、この駅の近くの旅館に宿泊した夜、国鉄からJRに替わりました。テレビでJRになる特番をやっていたのと、馬刺しがすごくうまかった印象が残っています。
昭和62年4月1日 JR初日の会津田島駅です。紅白幕が張ってあります。
ここからが今回の訪問です。
すっかり立派に成長しました。国鉄会津線時代からは想像もつかなかったですね。
特急リバティ会津とならんだ会津鉄道の気動車です。右は架線がありません。
右が出札です。売店のカウンターではありません。
硬券入場券があります。他はすべて機械発券です。
駅前にC11がありました。
いちおう駅弁もどきということで、こちらを購入。
そして車内で堪能します。野岩の車両はテーブルが広いのがいいですね。
さすが会津です。酒がほんとに多い。
2Fがレストランになっています。
ここからは野岩鉄道の車両、運転士、車掌です。電車なので、気動車免許しかもっていない会津鉄道の運転士では無理だからでしょう。
日曜日でしたが、乗客3名でした。特急のすぐ後ということもあったでしょう。
他に乗客がいなかったので、思いっきり窓を開けてみました。爽やかな風が入ってきて、非冷房時代を思い出します。
駅名は会津滝ノ原⇒会津高原⇒会津高原尾瀬口と変更されています。
ここまでが会津鉄道、ここから先が野岩鉄道となりますが、会津田島から電化されており、ほとんどの列車は会津田島発着となります。
まずは野岩鉄道が開通する前で、「会津滝ノ原」といっていた時代です。この時期は行けてないので、愛読書の種村直樹著『鉄道旅行術』の綴じ込み写真から。なんともたまらない寂寥感がありますよね。既に使われてない転車台、たらこ色の気動車、肌寒さを感じる秋の雰囲気といい、国鉄末期の雰囲気が良く出ています。会津線を訪ねたくなった写真の一つです。
これは1997年の12月に駅から郵便局に向かって歩いていたら近所の民家で見つけたものです。おそらく駅名が改称になって、いらなくなったものを貰い受けたのでしょう。私も地元の駅で不要になった大型の時刻表や運賃表をもらいましたが、ここにも物好きがいるようです。
しかし、「の」が間違ってますね。正確には会津滝ノ原だったはずです。
昭和62年4月1日の会津高原駅です。
私が行ったのは、会津高原という駅名に変更となった後で、野岩鉄道の真新しい線路と架線が引いてありました。奥の方の会津線は相変わらずなので、そのギャップがすごかったです。当時、会津田島から下りの一番列車に乗り、ここに来ました。3両もつないでいますが、折り返し会津若松行になり、ちょうど通勤ラッシュにあたるからです。
右の架線が、できたばかりの野岩鉄道です。線路はつながってなかった気がします。
無人駅のはずが、なぜか駅員がいました。しかも早朝なのに。簡易委託だったのかな。。。硬券はこれともう1種類しかなかったです。
野岩の乗車券を売っていたのかは覚えていません。当時は小学生で知識もなかったですし、国鉄以外はあまり興味がなかったので、とりあえず一番安く購入できるこれを1枚買いました。
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さて、今回の訪問ですが、列車交換のため6分停車で降りただけです。乗車券に途中下車印を押してもらって、駅舎の写真をとって、硬券入場券を購入してダッシュで乗ってきた列車に戻るという荒業です。久々に少年時代に戻った感じです。途中下車でダッシュするのは20年ぶりぐらいかも。その昔、JRで硬券入場券が発売されていた時期は数分の停車でいかに窓口でマウントを取るかというマニア間の競争がありました。車掌に最適な降り口を聞いてすさまじいスピードで改札を目指す私はだいたいトップをとっていましたね。
駅舎もかわっていません。
何も変わっていませんね。
手売り関連は入場券だけ健在です。あとは窓口でも機械で発券されます。
ここは個人的に思い入れのある売店です。小学生時代に来たとき、朝6時代にもかかわらず、ここでカメラのフィルムが終わってしまい救われた売店です。たまたま準備のために店員さんがいて、裏口からたずねたら、フィルムを購入できました。まだ存在したことをうれしく思います。
リバティ会津との交換風景です。
おまけ記事・・・急行南会津
以前は急行が会津田島まで走っていました。この路線では、臨時ですが、私鉄で唯一夜行列車もどきが走るところで有名です。通称「尾瀬夜行」といわれるやつですね。最近はかわってしまいましたが、しばらくはこの車両が使われていました。
会津高原尾瀬口に3時台の到着なので、ハイキング目的でなければ、ちょっと躊躇します。
1997年12月、北千住駅にて。
これは会津田島から浅草までの3社連絡急行券です。右にアップしたのは検札あとです。「トブ」というのが東武鉄道、「Y」が野岩鉄道です。