旅と鉄道の美学

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【コラム】 電車通学は面白いが、結局、近いのが一番だった件。むかしの飯田線の魅力もちょっと語る。

 6・3・3・1・4でトータル17年の電車通学歴です。1ってのは浪人生です。電車通勤歴はありません(※)。そんなわけで電車通学の思い出でも語ってみます。最後の4は東京の千代田線ですが、それまでは愛知県の飯田線です。

 

  ※正確にいうと、一時、新幹線通勤はありましたが、半分は出張です。 

  

 定期券は小学生から大学生までの物をもちろんきちんと保管してあります。小学生と中学生は、学校が継続で購入するので(公立です。)、卒業時の物しか手に入りませんでした。最後の物はクリアケースに入れて一つのシワも入らないように半年間、大事に使用しました。 

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 これは大学生時代の物ですが、1枚で買えるのに2枚で買うなんてバカだな~って思わないでください。ある意味バカなんですが。営団(現:東京メトロ)とJRの物がほしかったので分けているのです。ちなみに、意外に知られていませんが、綾瀬までが地下鉄千代田線で、そこから先はJR常磐線なので、分けても金額は同じです(※)。JRの線路を東京メトロの列車が走っていることになります。営団の方がコーティングがしっかりしていますね。小・中学生のときは紙でしたので、水濡れや日焼けに十分注意して使用していました。

 ※19/05/19訂正 分けると安くなります。通しで購入すると、規則上、北千住が接続駅となり、新御茶ノ水⇔北千住/北千住⇔亀有でそれぞれ計算されるからです。北千住⇔綾瀬間が東京メトロの線路なのですが、運賃計算上、JR線の扱いをするからです。

 

 ちなみに飯田線では長野県に入ると保育園で既に電車通学があります。さすがに保育士さんが一緒にいますが。それを見たときはちょっと悔しかったですね。もう少し山奥に生まれていたら、「オレ保育園から電車通学だぜ!」って自慢できましたからね。

 

1 駅での遊び方

  おおむね1時間ごと、昼は1時間半ごとしか走ってないので、乗り遅れないよう早めに駅に行くことになります。いまは無人ですが、小学生、中学生ともにどちらの駅も駅員がいたので、よく遊び相手になってもらいました。都会の駅と違って、駅員さんも一人勤務ですし、はっきりいって国鉄は暇なので、駅に2時間とか3時間は平気でいたように思います。もう時効だと思いますが、駅の事務室に入って設備や資料をいろいろと見せてもらいましたし、着札ももらいました。いちばんインパクトのあるもらい物は、運賃表と時刻表です。畳1畳ぐらいのバカでかい看板です。さすがに持って帰れないので、軽トラをもっている祖父を呼びました。もちろんこっそりではなく、管理している主幹駅の駅長の許可をとってもらいました。

 今思うと、その時期は国鉄改革の最後の方なので、駅員さんも年々、労働環境の変化に対する不安があったのだと思いますね。人材活用センターというセクションができていた時期です。そのような事情は大学の労働法の講義を受けてはっきり認識しました。ただ、就職氷河期世代の私からしてみると、国鉄改革で仕事を追われた時期はバブル絶頂期に向かう直前なので、転職市場としては悪くなかったのではないのかと思います。

  

2 どんな列車が来るか楽しみ

  小学生の低学年のころは、ギリギリ旧型国電が走っていましたし、貨物も走っていましたので、バラエティに富んでいました。さらに団体で気動車やイベント列車が入ってくることもありましたし、豊川では甲種輸送もありました(工場から新型車両が全国に出ていく)。長野県の方にいくと新宿と長野から急行も来ますので、実におもしろい路線です。そんなわけで、当時の飯田線といったら全国からマニアが集まってきていたと思いますが、小学生のときはよくわかりませんでした。でも、何かいろいろな種類の列車が通るな~ってのは感じていました。

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 旧型国電というのはこの列車です。小学生低学年のときだったので、写真が下手すぎですが、あえてこれを選びました。ちなみに内装は木製です。窓から顔を出していたとき急に窓が落ちてきて、首をはさんだ時は焦りました。建付けが悪くなっていたのです。写真に写っている車両は半分が郵便車と荷物車になっています。

 

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 こちらが少しグレードが上がった80系です。年配の方は湘南電車といったらわかるでしょうか。土曜日の半日授業のときは、これで帰宅していました。

 

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  こちらは急行用の165系です。普段は急行に使用されていましたが、たまに普通で入ってくることがあり、ちょっと高級感を感じました。なんといってもエアコンがついていましたから、夏はすごく得した気分でした。

 

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 JRになる直前は飯田線用の新車が入ってきていましたが、導入当初は白のラインがステッカーになっているので、剥がされまくっていました。撮り方が少し上手になってきています。

 

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 こういったツアー系列車も入ってきます。

 

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 ワイドビューひだや南紀の車両も入ってきます。ちなみに修学旅行で高山方面に行きましたが、キハ58でした。

 

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 急行「こまがね」(新宿⇒飯田)に乗っているときに、急行「天竜」(飯田⇒長野)と交換したので、撮ったものです。こまがねにはヘッドマークがないのですが、天竜にはありました。

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 急行天竜のサボです。

 

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 天竜廃止後、快速「かもしか」となり、快速みずすになりました。

 

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 貨物と思いきや、昭和天皇のお召列車です。

 

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 (急行列車の通過シーンは格別である)

 特に楽しみだったのが、土曜日の昼過ぎです。早めに駅行くと、急行「伊那」の通過シーンを見ることができたのです。といっても単なる通過ではなく、上り列車は一線スルー(直線になっているポイントを通過)なので、60キロぐらいのスピードでタブレットを受け渡ししていくのです。その迫力が今でも忘れられません。

 タブレットというのは単線区間で衝突を防ぐために運転士に渡すもので、これがないと発車できません。そしてこの中に入っている金属の玉が機械に収納されるようになっており、隣の駅と電気的につながっています。

 タブレット通過授受体験をやってくれたら、絶対行きます。

  ⇒いすみ鉄道さんご検討を。

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 これは仲良くなった駅員さんにもらったもので、実際に飯田線で使用されていたものです。大きくもなく、小さくもなく、シマシマ飯田線身延線の特徴ですね。いまでも部屋のインテリアになっています。

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 こんな感じで助役さんが運転士に渡していました。三河川合駅にて。

 

 通過場面はこちらを参考に。 

 

 3 乗り遅れたら

  飯田線なんで、平均して1時間に1本ぐらいです。乗り遅れた場合に考えることは、「歩いて帰ってみよう!」です。で、小学生などはまともに帰るはずはなく、そこらじゅうで道草です。そうすると、途中で次の電車に抜かされるわけです。まあ1本ぐらいなら平気なのですが、2本も3本も抜かれて、薄暗くなってくると、さすがに焦ってきます。

 結局、学校が終わったのは12時なのに、帰宅したのは19時という、とんでもない結果になるのです。

  

4 災害時の対応

 

 (集中豪雨で電車ストップ)

 高校生の時に高校の最寄駅から二駅前で雨のため電車がストップしました。まったく動く気配がなく、開通の見通しも立たないとのこと。すると一部の集団が線路沿いを歩きだし、他の生徒も後を追うように行列になっていきました。たぶん40分程度国道沿いに歩けば高校まで到着するのですが、私は思いました。

 2限目の数学の宿題がまだ終わっていない。。。ではなくて、列車がストップしているのに歩いていくというのは、そこまで努力すべき義務があるのだろうか。確かに勉強に対する根性美談としてはありですが、生徒手帳の校則を調べまくりました。暴風雨警報発令時とJRのストライキの記事はあるも、集中豪雨で列車が抑止した場合のことは記載されていません。そこでストについて規定されている部分をみると、関連規定は2文ある。この規定を今回の事案に類推適用するしかなさそうである。当時は類推適用などという専門用語は知らなかったが、そういう思考回路で考えていました。

 

 ①「交通機関がストップした時は別途登校方法を考える。」

 ②「ストライキ解除の情報に注意して、交通機関が復帰した場合には速やかに登校して授業を受けること。」

 

 別途、登校方法を考えるとは?そこで旅師のパワーが発揮されると、並行している路線バスを使って高校の最寄駅にいけるだろうなんて知識はすぐに出てくるのですが(バス停の名称まで頭に入っている)、冒頭のとおり、数学の宿題ができていないので、バスは知らないことにしておこう。。。で自己解決。

  次に②を反対解釈に拡大解釈を加えて、「復帰しなければ、復帰するまで自宅待機」と 。これで、うるさい学年主任を論破できる材料はそろいました。

 

 折り返しの列車で自宅に戻り。地元の有線放送で開通の通知がでるまで待ちました。結局、学校についたのは昼飯前。残念ながら2限の数学には出られなかったですw。

  

 (架線に霜がついてパンタグラフ破損)

 長野の大糸線や群馬の吾妻線などは、初電で霜取り列車が走ることがありますが、飯田線はそのようなことはしておらず、冬になるととんでもなくスパークしながら走ります。あるとき、ついにパンタグラフが吹っ飛びました。わたくしが乗る3駅手前の無人駅で動けなくなってしまったのです。

 その後が笑えます。たまたま、直後に団体客を乗せたお座敷列車が追走しており、乗客はそれにのってくれとのことです。お座敷列車で通勤、通学というのも風流ですね。飯田線の場合は豊川より北は並行する私鉄などはありませんから、振替輸送をする場合は地元の路線バスを手配する形になりますが、すぐには出来ません。田舎ならではの対応です。小学生の中には団体客からお菓子をもらって食べたというやつもいました。これはディーゼル機関車がけん引していたのが幸いしたようです。

 

 (巨大な落石)

 国鉄時代の災害と云えば、日光線が枯葉で空転、小海線が毛虫で空転、飯田線は落石で運休などと鉄道雑誌に書かれていることが多かったと思います。たしかに飯田線は落石が多かったです。特に印象的なのは、直径5メートル近い巨大な岩が線路上に落ちたときです。翌日の夕方まで不通で、最終的に爆破して撤去していました。電車が通過したあとで良かったと思いました。

 その話を祖母としたときに、戦前ですが、同じ場所で似たような時間に似たような岩が落下して、電車を直撃して、電車ごと谷底に落下して多数の死者が出たとのことを聞きました。そのときは、知り合いの娘さんがその電車に乗っていて帰らぬ人となったとのことでした。他方でたまたま乗り遅れて助かった人もいたようです。

 

5 浪人生時代の電車通学

 これ、現役で入った奴と出会うときついっすわ。でも、幸いなことに、大学に行った奴は地元を離れているし、就職した奴は免許取って車で通っているしで、夏休みさえクリアすれば、出会うこともない。

 フルタイムで講座をとる方法もあったのですが、なんかパックツアーみたいで気に入らないので、単科講座を組み合わせてとることにしました。ここでも旅師の習性が影響していますね。航空券だけとって、現地ツアーを現地で申し込むみたいな。そしてメインを全く人気がなかった東進衛星予備校にしてサブを河合塾。これで、講座を昼からにできたので、家を出るのは10時30分ぐらい。この時間の電車はあまりに空いていて新鮮でした。

 そして夏休みは青春18きっぷ通学。名古屋駅前の代ゼミ河合塾へ1週間通いましたが、帰りにいろいろなところに行きまくってしまい、勉強しなかった1週間でした。

 結局、河合塾城下町なのですが、一番お世話になったのは、東進衛星予備校でした。

 

6 大学生時代の電車通学

 

 (乗車率日本一だったかな?千代田線)

 当時、日本で一番混雑すると言われていたと思います。千代田線です。北千住・西日暮里間の混雑は半端じゃなく、何も良い思い出はありません。ちなみに、おおむねサリン事件のあった時間が通学時間だったのですが、その日は多摩の友人宅で昼まで寝ていました。朝起きて、テレビを見てびっくり。都心部を避けて、武蔵野線経由で自宅の亀有に帰った思い出があります。 

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 この列車には、最近、フィリピン国鉄でまた乗る羽目になったのですが、まったくもって感慨深いなんて印象はありませんでした。

 

 (鉄道好きでも沿線は無理!)

 ちなみに最初は環7沿いに住んでいて 、うるさくてたまりませんでした。しかも築40年以上のエアコンもない木造ぼろアパートで、夏休みの朝、背中をゴキブリがはっていて起こされたことがありました。この日を境にバイト探しをして、エアコンつきのマンションに引っ越したのです。バイトは、駅員wです。中間駅だったので、出札、改札、ホーム監視、案内放送、クレーム対応から、事故対応、雪かきまで何でもやりました。キセルも捕まえましたYO! ゲロの片付けも得意でした。

 

 しかし、引っ越した先もいまいちでした。実は上の写真は自宅から撮ったものなのですが、常磐線が思いのほかうるさかった。電車の音は慣れるということを聞いていたので大丈夫かと思いきや、常磐快速線の焼けそうなモーターの音はどうにもなりませんでした。鉄道好きでも四六時中聞いているとさすがに嫌になります。

 

7 結局近いのが一番だった

 とまあ電車通学はそれなりに楽しみもあるのですが、結論としては近いのが一番です。特に小学生のときは、学校から駅に向かって歩いている途中で、すでに自宅に帰って遊びに行く友達とすれ違うことが多く、すごくうらやましかったです。遊び時間の開始が1時間も違いますし、起きる時間も1時間違いますから、オレはあいつより人生において、毎日2時間の犠牲を払っていると小学生ながら感じていました。中学生になると、部活の有無で帰宅時間はかわってきますから別の話になります。

 そんな経験があって、社会人になったときからは、通勤10分以内。また極端ですが。これが基本になりました。最短時は3分ですね。本当の理想は勤務先と自宅が同じビル。これが最高です。不動産関係なので、いろいろな物件を見ていますが、金沢で理想のビルの見積もりを作成したことがあります。国道側にテナントが入っていて、中廊下でつながっていて、裏側が単身のマンションになっている。これ、部屋によっては通勤10秒やん!って思いました。

 ナニワ金融道の灰原は通勤15秒ぐらいですよね。競売妨害もどきの短期賃貸借を担保ビルに設定して住んでしまうっていう。あんなのが楽でいいですね。 

 

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 今から振り返ると、道草癖はたぶん小学生時代に形成されたのだと思います。通学時間が長いのなら、行きも帰りも過程を充実させて、あわよくば同じルートで帰らないようにしようと。おかげで同じ時間と金を使っても、他の人より旅で多くの経験をすることができたと思います。まあせわしない旅行が多かったですけどね。今後もこのスタイルは変わらないでしょう。

 

 いまでも出かけた帰りに電車に乗らずに歩いて帰ってくることや、ルートを変えることはよくやっています。これって、孤独のグルメみたいで面白いですよ。メシの時間なら、これっ!って思った店に直感で入って食べてみたり。

 

 長時間の電車通学をする小中学生がいたら、参考にしてください。

 トータルすると、小学生から電車通学ってのはいろいろと社会勉強になりますよ。最近だと防犯面の問題はあろうかと思いますが、かわいい子にも、かわいくない子にも旅をさせろって言いますしね。

 

 PS.

 呑み屋でウダウダ話すようなネタで申し訳ありませんでした。